しんちゃん作者崖下のぞき込んでいた(日刊スポーツ)

臼井儀人先生が亡くなられたわけですが。上の記事を読むかぎり、危険な領域まで行って崖下の写真を撮りたい、というよほどの欲求にとらわれての転落事故だったのかもしれません。
強い探究心の末だとしたら、本人も意図しない状況なわけですし、心残りだっただろうなと思います。

さて、臼井儀人先生といえばどうしても『クレヨンしんちゃん』になるわけですが、私のプロフィールを読んでいただいても分かるように、臼井儀人先生が住まわれ、『しんちゃん』の舞台のモデルともなった春日部市に4年前まで長く住んでおりました。私の場合は、世代的に『しんちゃん』を熱心に見ていたわけではなかったですが…。

最近でこそ、春日部市は市を挙げてしんちゃんを街のシンボル的にしていたわけですが、映画がブレイクするようになる頃までは、春日部の街からの『しんちゃん』への反応はかなり冷たいものであった、というか、「黙殺されていた」というのが正しいかと思いますが、そういう感じでした。

なぜ黙殺されていたか。私が考えるに、古くから、それこそ江戸時代から代々住んでいるような春日部市民から見れば、しんちゃんはじめ野原家の人たちが、「よそ者」的な存在に過ぎなかったからというのがあるのではないかと見えるのです。
春日部という街は、昔からそういう古株な人たちが牛耳ってきた街だったために、しんちゃん一家のような存在が春日部のイメージキャラになることをなかなか許さなかったのではないだろうか、と考えるのですが。

さらに言えば、ある意味「まんがのキャラクターごとき」で左右される街であってはなるまいぞ、という古くから住んでいる春日部旧住民の概念が、春日部市と『しんちゃん』を結びつけることを長く邪魔してきたようにも感じられます。
これは『らき☆すた』にも同じことが言えて、『らき☆すた』に関して言えば、いまだに春日部市としては黙殺状態ですから。だからこそ「『らき☆すた』の街」の称号を鷲宮町に取られたわけですが。春日部が取っておけばいい商売になったのに(笑)。

しかし事実としては、これまでこれといったアイデンティティのなかった春日部市に、『クレヨンしんちゃん』がはじめてアイデンティティを与えることになったわけで、その存在感は著しく大きなものであったと感じます。
『しんちゃん』がブレイクしてからは、「春日部? ああ『しんちゃん』の街ね」で通るようになったのですから、これほどすごいことはないでしょう。
なにせ、それまでの春日部を代表するものといえば、「桐たんす」と「麦わら帽子」、あと「牛島の藤棚」でしたから。「東洋一の住宅団地」と呼ばれた武里団地(草彅剛氏の出身地でもある)も、外からみれば有名なのですが、春日部旧市民からすればしんちゃんと同じ「よそ者」の土地なわけで、内側からは自慢の種にはなりませんでした(笑)。

春日部という街にアイデンティティを与えてくれた『クレヨンしんちゃん』という作品に、春日部市民はいくら感謝しても足りないと思いますし、これまでも現状でも、まったく足りていないと思います。

ということで、臼井儀人先生への追悼代わりの一文、これにて。
最後になりましたが、臼井儀人先生のご冥福をお祈りいたします。