このブログのタイトルのところで書いている巻頭言で、石見翔子先生の『スズナリ!』の世界観にフィットしたサウンドトラックとして私が挙げたのが、はっぴいえんどというグループの『はっぴいえんど(通称ゆでめん)』というアルバム。
最近では、「まんがタイムきららキャラット」誌に掲載された、大沖先生の『はるみねーしょん』のタイトルイラストでこのアルバムのジャケットデザインがモチーフとして使われたので、画像的には覚えておられる方もいるのではないかと思うのですが。それはさておき。
そして以前に、私が蕃納葱先生の『教艦ASTRO』にフィットしたサウンドトラックとして挙げたのが、大瀧詠一の『アーリー大瀧詠一』というアルバムですが。
大瀧詠一がはっぴいえんどのメンバーで、大瀧詠一以外のはっぴいえんどのメンバーが、『アーリー大瀧詠一』収録曲での大瀧詠一の音作りに参加している、というのは、大瀧詠一を、あるいははっぴいえんどを知っている人ならご存知のことと思います。
と、ここまで長々と説明しましたが、私から見ると、ここで挙げた2枚のアルバムにはどちらからも、ほの暗い暗さといいますか、微妙な根暗さというか(笑)、そういうものを感じます。シニカルというか、斜に構えた感じもしますが。
とすると、私がこの2枚をサウンドトラックとして挙げたふたつの作品も、やはり共通した雰囲気があるということなのかなあと、最近『スズナリ!』を読み返してみて感じたのですが。
ただ、「暗さ」というとマイナスイメージが強すぎるように思えます。美術的観点でみると、「影」というべきかなと。影のつけかたというのは、絵画などでは重要な要素を占めることもありますから。
『スズナリ!』(とくに2巻)における影の差した雰囲気は、この作品を読まれた方には理解してもらえやすいように思います。
コミカルなように見えても、どこかしらにひとすじの影が差すというか。
鈴を失った楓の喪失感や、鈴を取り戻そうとする楓の悔恨を描いたあたりがいちばん分かりやすいですが、読んでいて痛がるような痛みを感じるわけではないけれど、鉛を飲み込んだような胃の重さを感じる、といいますか。
『教艦ASTRO』の場合は、キャラクターたちが『スズナリ!』よりもコミカルに動く度合いが高いので、読んでいてもなかなか「影の差しかた」に気づかないことも多いのですが、たとえば私から見ると、分別のついた大人(しかも教師!)という存在であるがゆえに「牧和泉先生が好き!」という気持ちをおもてに出せない、烏丸テンテーの葛藤とか、牧兄先生を愛し尽くしたいのにいまひとつ突きぬけられない、荒井テンテーの内なるモヤモヤとか、そういう部分に影の差しかたを感じます。
でも、こういう「作品の中に影を差させる」作業というのは、ストレスが溜まるんじゃあないかなと思うのですよね。私だったら、はっきりいって仕事としてはやりたくないです。楽しめる趣味としてならなんとか。と感じますが。
でも、『スズナリ!』も『教艦ASTRO』も、そういった「影」の差すところがなかったら、私にとっては魅力ががくっと下がるわけで、この両作品では影の差しかたの絶妙さがそのまま、作品の肝になっているのではないかとすら思うほどです。
また、そういう意味では、石見翔子先生の『かなめも』という作品はじつに興味深いと思うのですね。
なにせ、「おにゃのこ同士がくっつくのはこの世界の正義ですがなにか?」的な(笑)世界観をはじめ、作品全体に影の差している気配がまるでありません。ここまで違う作品をよく描けるものだと感じます。
じつは、『かなめも』こそは4コマとしてじつに「合っている」作品であり、『スズナリ!』はほんとうなら一迅社の「百合姫」あたりで描かれていたほうが合っていたのではないか、という仮定も、私の中にはあるのですが。
最近では、「まんがタイムきららキャラット」誌に掲載された、大沖先生の『はるみねーしょん』のタイトルイラストでこのアルバムのジャケットデザインがモチーフとして使われたので、画像的には覚えておられる方もいるのではないかと思うのですが。それはさておき。
そして以前に、私が蕃納葱先生の『教艦ASTRO』にフィットしたサウンドトラックとして挙げたのが、大瀧詠一の『アーリー大瀧詠一』というアルバムですが。
大瀧詠一がはっぴいえんどのメンバーで、大瀧詠一以外のはっぴいえんどのメンバーが、『アーリー大瀧詠一』収録曲での大瀧詠一の音作りに参加している、というのは、大瀧詠一を、あるいははっぴいえんどを知っている人ならご存知のことと思います。
と、ここまで長々と説明しましたが、私から見ると、ここで挙げた2枚のアルバムにはどちらからも、ほの暗い暗さといいますか、微妙な根暗さというか(笑)、そういうものを感じます。シニカルというか、斜に構えた感じもしますが。
とすると、私がこの2枚をサウンドトラックとして挙げたふたつの作品も、やはり共通した雰囲気があるということなのかなあと、最近『スズナリ!』を読み返してみて感じたのですが。
ただ、「暗さ」というとマイナスイメージが強すぎるように思えます。美術的観点でみると、「影」というべきかなと。影のつけかたというのは、絵画などでは重要な要素を占めることもありますから。
『スズナリ!』(とくに2巻)における影の差した雰囲気は、この作品を読まれた方には理解してもらえやすいように思います。
コミカルなように見えても、どこかしらにひとすじの影が差すというか。
鈴を失った楓の喪失感や、鈴を取り戻そうとする楓の悔恨を描いたあたりがいちばん分かりやすいですが、読んでいて痛がるような痛みを感じるわけではないけれど、鉛を飲み込んだような胃の重さを感じる、といいますか。
『教艦ASTRO』の場合は、キャラクターたちが『スズナリ!』よりもコミカルに動く度合いが高いので、読んでいてもなかなか「影の差しかた」に気づかないことも多いのですが、たとえば私から見ると、分別のついた大人(しかも教師!)という存在であるがゆえに「牧和泉先生が好き!」という気持ちをおもてに出せない、烏丸テンテーの葛藤とか、牧兄先生を愛し尽くしたいのにいまひとつ突きぬけられない、荒井テンテーの内なるモヤモヤとか、そういう部分に影の差しかたを感じます。
でも、こういう「作品の中に影を差させる」作業というのは、ストレスが溜まるんじゃあないかなと思うのですよね。私だったら、はっきりいって仕事としてはやりたくないです。楽しめる趣味としてならなんとか。と感じますが。
でも、『スズナリ!』も『教艦ASTRO』も、そういった「影」の差すところがなかったら、私にとっては魅力ががくっと下がるわけで、この両作品では影の差しかたの絶妙さがそのまま、作品の肝になっているのではないかとすら思うほどです。
また、そういう意味では、石見翔子先生の『かなめも』という作品はじつに興味深いと思うのですね。
なにせ、「おにゃのこ同士がくっつくのはこの世界の正義ですがなにか?」的な(笑)世界観をはじめ、作品全体に影の差している気配がまるでありません。ここまで違う作品をよく描けるものだと感じます。
じつは、『かなめも』こそは4コマとしてじつに「合っている」作品であり、『スズナリ!』はほんとうなら一迅社の「百合姫」あたりで描かれていたほうが合っていたのではないか、という仮定も、私の中にはあるのですが。
Comment
大瀧さんの粘っこい歌い方が意外に感じたものでした。
さて、明るさ一辺倒の作品も私は好きなのですが、
Voyagerさんと同じく、明るさと陰りを併せ持った作品も好きです。
『かなめも』は、はるかさんの印象が強すぎて(笑)、とにかく明るい感じがしますね。
でも物語冒頭で、かなちゃんが天涯孤独になったことや、
そのためか、かなちゃんが孤独をひどく恐れている様も織り込まれているので、
その点においては、私はこの作品にも影の差す部分もあると思っています(私だけかもしれませんが)。
読んでいて楽しい作品ですし、好きであることに変わりはないのですけどね。
コメントありがとうございます。
公式にはやはり、「はっぴいえんど」だと思います。2nd以降の「風街」思想が色濃く加わる前だった、1stの無思想なところが、その曲をサントラとして当てはめやすそうな理由なのだと思うのです。
いまや「福生のご隠居」も、当時は若かったんですよきっと(笑)>粘っこい歌い方
『かなめも』に関しては、たしかに通常のはるかさんの印象が強いから明るく感じますよね。
「光のパノラマ」なんて書いちゃいましたけど、「まばゆいくらいに明るい」ってわけでもないんですよね。その辺りは石見先生の変わらない作風なんだろうなと。
先日の連載では、はるかさんにも影が差す部分があることが分かりましたし。
こういう言い方をしたら石見翔子作品ファンを敵に回すのかもしれないですが、『かなめも』に関しては、石見ファンを(ある意味)喜ばせる展開にはして欲しくないと思う部分もあります。明るいトーンの作品のままでいいじゃないかと。
これからもどうぞごひいきに。
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