国立新美術館の受賞作品展示会場で展示された、コミティア107で書かれた寄せ書き
じつは私も書いたんですよねえ…あんなに大々的に飾られるとは思わなかったので
創作系同人誌即売会「コミティア」の中村公彦代表が、このたび「文化庁メディア芸術祭」の功労賞を受賞され、2月9日に受賞者とゲストを招いてのシンポジウム「コミティアという場所/マンガの周縁に在りつづけて」が開かれたので行ってきました。
中村さんご本人も「受賞は意外だった」とおっしゃるだけあって、これまで漫画関係で受賞されたのは、すでに一線を退かれた漫画雑誌創業世代の編集者さんなどがほとんどなのですが、今回の受賞は賞の審査委員会の中でも異論なくすんなり決まったとのことでした。
コミティアのカタログなどでもお馴染みの漫画家belneさん、同じく漫画家さんで20回目ぐらいのコミティアまでスタッフとしても働いておられた山川直人さんがゲストで、中村さんいわく、「コミティアに影響を与えてくれたふたり」ということでゲストに招かれたとのことでした。
シンポジウムというよりは、コミティアよもやま話という感じでしたが、面白かった話をちょっと抜き出してみましょうか。
「コミティアはなぜ生まれたか」
もともと、中村さんと山川さんは亜庭じゅん氏が主宰していた創作系イベント「MGM」に参加されていた。おふたりにとってMGMはとてもいいイベントだったが、亜庭氏の意向で、「規模拡大はしない。古くからのサークルを無碍にできないぶん、新しいサークルは入りづらい」という面があったために、それなら新しいサークル、新しい作家さんのために即売会をやろう、ということで仲間とともにコミティアを立ち上げた。
当時は、当日のスタッフが30人ほどで(大半は全参加サークルの半分を占めた委託スペースのための人員)、事前準備まで参加するスタッフは10人もいなかったとのこと。
「コミティアに関わるきっかけ」
当時中村さんが勤めていた漫画情報誌「ぱふ」の出版社に話を通して、ぱふとして「協力」という形になった。
やがて初代コミティア代表が就職で代表を続けられなくなったので、3回目から中村さんが代表に。「ぱふ」が協力していた手前、代表がいなくなったからといって終わらせるのはしのびないのが理由だったとか。
山川さんはサークルをやりながらコミティアスタッフをやっていた。中村さんいわく、「小演劇など、漫画とは違ったジャンルからのアイデアを出してくれた」
belneさんは、ある時に委託スペースの売り子が足りないために頼まれて売り子をやったのがコミティアに深く関わるきっかけだったとか。コミックワークショップ(以前は東京コミティアでも行っていたが、現在は新潟コミティアで年二回)や、コミティアのカタログであるティアズマガジンでの漫画の描き方講座などで活躍される。
中村さんいわく、「描きたいものがあってもどう描くかがわかっていない人に的確に教えるというのは、なかなかできるものではない」
合同誌が多かった時代、誰かの原稿が揃わなかったという理由でクオリティが低い本を出してくるサークルが目立つようになったことに苛立った中村さんが、「これからは個人サークル以外参加お断りにしたい」とbelneさんに相談したところ、belneさんに「それはダメだ」と一喝された。
belneさんいわく、「なんでも先鋭化したらだめになる」。「そのときは、中村さんにいま思い出すと『禁じ手』ともとれる発言もした(「それならお前が漫画を描いてみろ」的な)」。
コミティアも当初はいろいろな会場で行われた。一回は飯田橋駅上にある商業施設、ラムラのアーケード部分で行ったが、その時ちょうど「東京・埼玉連続幼女殺害事件」の犯人が逮捕されたころ。
メディアの取材が殺到した。当時は取材申請などもなかったので、中村さんも「(取材が来たのは)把握してなかった」。
当時スタッフだった山川さんも取材を受けて、「(犯人の家のビデオテープや漫画の散乱ぶりに)あれぐらい普通。うちだってあれぐらいはあります」と答えたが、ビデオテープに関しては「それほどはなかった」と。
山川さん「10年ほど前に、コミティアにサークル参加すると友達ができたり、あるいは恋人ができたりするという話が聞こえるようになって、コミティアの質が変わってきたのかなと」。
belneさん「コミティアは年4回あるけれども、漫画を描く人にとっては、それが締め切りのようになっているから描けることもある」。「すでに鬼籍に入られている知人だが、がんの治療を受けていて、もう残された時間がいくばくもないとされた作家さんが膨大な量のアイデアを思いついてしまい、でももうそんな大作を描く余裕なんてない、と思っていたところに、私が『コミティア合わせで少しずつ描きためていけば』とアドバイスしたところ、そのコミティア連載が約200ページの作品になり、webでも発表されて、ついに商業の単行本になった」。
「商業誌とコミティアとの関係」
中村さん「昔は、同人と商業は対立関係にあったけれど、ある同人サークルの主宰さんにインタビュー(ティアズマガジン関係?)した時に、『面白い作品に商業も同人もない』と言われて、対立するものじゃないと考えるようになった」 。「コミティアで、アメコミなどに携わる出版社のマーベルから原画展をやりたいという希望があり、その際に『スペースをもらって原稿の持ち込みを受け付けたい』という希望もうけて、それなら、と知り合いの編集者などにも募って開催したのが、コミティアで現在も続く出張編集部(持ち込みコーナー)」。
中村さん「webが発達し始めた頃、私はおぼろげに、『これが進めば即売会とかも要らなくなるのかなあ』と思っていたけれど、いまはwebで発表していた作家さんが、『読者の生の声を聞きたい』とか、『無料のwebではなく、代価を払って買ってもらう形式でどれだけ反応が返るのか知りたい』という理由でコミティアに参加するようになって、コミティアの規模も大きくなっている。予想と違って、コミティアにとっては嬉しい流れになった」
このほかにも面白い話がいろいろあったんですが、記憶がはっきりしているこのぐらいで。
受賞当時から中村さんが言い続けておられる「この賞はコミティアに携わる全員でもらった賞」、というのと、「この賞は『(先払いならぬ)先貰い』で受け取った賞、これからまだ何年も頑張って(そのためには健康第一ですよ!)、その結果何十年後かに、今回審査をしてくださったみなもと太郎先生からまた授賞式をやっていただきたい」という受賞の言葉が印象的でした。
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